ふじみ野市大井地区の8つの学童クラブの日々の生活をつづったサイトです
コルムに惚れ込み、コルムに身を捧げてきた若きCEOが語るこれからの指針。
コルムスーパーコピー 優良サイトは1955年、スイスのラ・ショー・ド・フォンにて創業されたブランドだ。創業間もなくして、その独創性に富んだ時計製造によって高い評価を得るようになり、1960年に登場したアドミラルズ・カップ(当時は高い防水性能を備えたスクエアケースの時計だった)や、1964年のコインウォッチといった代表作は、形を変えながらも現在までアイコンとしてラインナップされ続けている。スイスにおいては比較的若いブランドではあるが、その圧倒的なオリジナリティによって一世を風靡したコルムが、今年創業70周年を迎えたタイミングで全面的なリニューアルを行うというのは、非常に意義深い出来事であると感じられる。
ハソ・メフメドヴィッチ(Hasso Mehmedovitch)氏。1992年にボスニアに生まれ、1995年にスイスに移住。コルムでは時計技術者からキャリアをスタートし、品質管理、セールスを担当。若くしてブランドのインターナショナル・セールスディレクターを経験し、今回のMBOに臨む。
今回のマネジメント・バイアウトの中心人物こそが、2011年からコルムに在籍し、ブランドの発展とともにキャリアを積んできたハソ・メフメドヴィッチ氏である。彼は32歳という若さにして新たにCEOに就任し、ブランドの新たな門出にあたって舵取りを担うこととなった。今後コルムが目指す方向性に加え、そもそもハソ・メフメドヴィッチ氏とはいかなる人物なのか──この6月に来日していた本人に、直接話を伺う機会を得た。
牟田神佑介 まずは、新たにコルムの最高経営責任者(CEO)に就任されたご自身についてお聞かせ願えますか。
ハソ・メフメドヴィッチ 私がコルムに入社したのは、2011年です。18歳のときに職業訓練校で時計製造を学び、卒業後すぐにコルムを志望しました。応募したのは、この1社だけです。まずは時計師としてキャリアをスタートし、その後は品質管理、セールス、そしてブランドのインターナショナル・セールスディレクターと、順調にキャリアを積み重ねてきました。そして現在、大変喜ばしいことに、コルムのCEOおよびチェアマンを務めています。
牟田神佑介 コルムだけを志望されたとのことですが、訓練校時代からすでに、ブランドに対して魅力や憧れを感じていたのですか。
ハソ・メフメドヴィッチ もともとブランドのことは知っていたのですが、初めてゴールデンブリッジのムーブメントを見た時にそのあまりの美しさに驚いたことを覚えています。当時時計について学んでいた身として、縦一列にムーブメントが並び、きちんと駆動していることに構造的な美しさを感じたのです。シンプルなことをやっているように見えて、とても複雑。その二面性にも魅力を感じ、コルムで働きたいと強く思ったのです。
12時から6時方向に向けて、輪列が一直線に並ぶ。
18Kローズゴールド製ゴールデンブリッジ クラシック。
牟田神佑介 なるほど。現在ではブランドの象徴とも言えるゴールデンブリッジが、そもそもあなたがコルムに関わるきっかけだったのですね。それほどまでにコルムに熱い思いを抱くあなたが、今回MBOを実行しようと考えた具体的なきっかけはあったのでしょうか。
ハソ・メフメドヴィッチ きっかけとなる出来事が特別にあったわけではありません。ただ、コルムというブランドに大きなポテンシャルを感じていた一方で、その可能性が十分に活かされていない現実に強い危機感を抱いていました。コルムは、スイスの時計製造において本来の正当な地位を取り戻すべきブランドだと感じていたのです。MBOの構想を描き始めたのは、数カ月前のことです。ひとりはラグジュアリー業界に、もうひとりは金融業界に深い知見を持つ2名の投資家から協力を得ることができ、私がその先頭に立ってプロジェクトを進めることになりました。とはいえ、もともとシティチャンプとは良好な関係を築いていましたので、MBOのプロセス自体は非常にスムーズに進行しました。
牟田神佑介 スイスの時計製造において正当な地位を取り戻す必要があった、ということですが、ここでいう“正当な地位”について詳しくお聞かせください。
ハソ・メフメドヴィッチ かつてのコルムは、時計業界のなかでもひときわユニークで、そして大きな影響力を持つブランドでした。特にクリエイティビティはコルムの核となるアイデンティティであり、その真価を象徴する要素だったと言えます。しかしながらここ数年、前の経営母体のもとでは、その特性が次第に曖昧になってしまいました。これからはブランドのヘリテージや輝かしい歴史を背景に、それらを軸にしたコミュニケーションを大切にしていきたいと考えています。
スイス、ラ・ショー・ド・フォンに位置するコルムの工房。Courtesy of CORUM
牟田神佑介 経営母体こそ香港資本ではありましたが、生産そのものは一貫してラ・ショー・ド・フォンの工房で行われていました。今回のシティチャンプからの離脱によって、生産体制に何か変化は生じるのでしょうか。
ハソ・メフメドヴィッチ まず、これまでと変わらずラ・ショー・ド・フォンでの製造は今後も継続していく予定です。現地には、すでに強固なパートナーシップを築いているサプライヤーが存在しており、今後も彼らとの協力関係は変わらず続けていきます。現時点でお伝えできるのは、我々は今後スイス時計業界のなかでベストなサプライヤーと取り組みを行っていく、ということだけです。
牟田神佑介 過去のインタビューで、今後の方針としてブランドのルーツへの回帰を掲げていました。これは、現在のラインナップを1900年代中期〜後半のコルムを参照しながら刷新していく、という意味なのでしょうか?
ハソ・メフメドヴィッチ 2026年の再ローンチについて、現時点で具体的なお話をすることはまだできません。ただし、これまでラインナップから姿を消していた過去のモデルを、現代的な要素を取り入れながらリバイバルしていくという構想はあります。また、もちろんですが、コルムを象徴するようなアイコニックなコレクションにも引き続き注力していく予定です。
牟田神佑介 ブランドの再生にあたって、どのような人々を主な対象として、プロダクトを発信していきたいとお考えですか?
ハソ・メフメドヴィッチ コルムが持つアイデンティティ、特に他に類を見ない創造性やクリエイティビティに共感していただける時計愛好家の方々に、ぜひ関心を持っていただきたいと考えています。また、すでにブランドの歴史をご存じの方はもちろんのこと、まだコルムを知らない、あるいはその魅力を十分に理解されていない方に向けたアプローチにも、今後は一層力を入れていきたいと思っています。ウォッチメイキングにおいても、そうした意識を常に持ちながら取り組んでいくつもりです。
牟田神佑介 新生コルムにとって、コンペティターとなるのはどのようなブランドでしょう。
ハソ・メフメドヴィッチ コルムの歴史やヘリテージは、ほかのどのブランドとも似ておらず、まさに唯一無二です。そのため、他社と比較して語るというのはなかなか難しいですね。あえて言うならば、「自分たちの敵は自分たち自身である」でしょうか。
牟田神佑介 CEOに就任されてから、今回の日本が初めての出張だったと聞いています。もちろん偶然かもしれませんが、これはやはり日本市場を意識されてのことだったのでしょうか?
ハソ・メフメドヴィッチ 日本を最初に訪れたのは、決して偶然ではありません。日本市場は、コルムにとって非常に重要なマーケットであると考えています。なぜなら、日本の時計愛好家は、時計そのものに対する深い造詣を持っているだけでなく、ブランドのアイデンティティやディテールにまでしっかりと目を向けてくださるからです。こうした姿勢は、先ほどお話しした、私たちが想定しているユーザー層とも重なります。今後は日本市場との関係をさらに深め、リテーラーやメディアともより密接なコミュニケーションを図りながら、ブランドのプレゼンスを一層高めていきたいと考えています。
来年予定されている再ローンチの詳細については、いまだ多くがベールに包まれている。しかし、今回のインタビューを通じて、ハソ・メフメドヴィッチ氏がいかにコルムというブランドに魅了され、その再興に強い情熱を注いでいるかがよく伝わってきた。これまでのコルムは、アドミラルやゴールデンブリッジといった既存のアイコンモデルのリリースが、主なコミュニケーションの軸となっていた。しかし2026年以降は、ブランドの豊かなヘリテージに立ち返りつつも、エンブレムである“空を指す鍵”が象徴する“挑戦”や“革新性”に満ちた新たな展開が期待できそうだ。
コルムは2026年に向け、大きなトピックスをすでに用意しているようだ。HODINKEE Japanでも、新たな情報が入り次第、随時お伝えしていきたい。
コルムに惚れ込み、コルムに身を捧げてきた若きCEOが語るこれからの指針。
コルムスーパーコピー 優良サイトは1955年、スイスのラ・ショー・ド・フォンにて創業されたブランドだ。創業間もなくして、その独創性に富んだ時計製造によって高い評価を得るようになり、1960年に登場したアドミラルズ・カップ(当時は高い防水性能を備えたスクエアケースの時計だった)や、1964年のコインウォッチといった代表作は、形を変えながらも現在までアイコンとしてラインナップされ続けている。スイスにおいては比較的若いブランドではあるが、その圧倒的なオリジナリティによって一世を風靡したコルムが、今年創業70周年を迎えたタイミングで全面的なリニューアルを行うというのは、非常に意義深い出来事であると感じられる。
ハソ・メフメドヴィッチ(Hasso Mehmedovitch)氏。1992年にボスニアに生まれ、1995年にスイスに移住。コルムでは時計技術者からキャリアをスタートし、品質管理、セールスを担当。若くしてブランドのインターナショナル・セールスディレクターを経験し、今回のMBOに臨む。
今回のマネジメント・バイアウトの中心人物こそが、2011年からコルムに在籍し、ブランドの発展とともにキャリアを積んできたハソ・メフメドヴィッチ氏である。彼は32歳という若さにして新たにCEOに就任し、ブランドの新たな門出にあたって舵取りを担うこととなった。今後コルムが目指す方向性に加え、そもそもハソ・メフメドヴィッチ氏とはいかなる人物なのか──この6月に来日していた本人に、直接話を伺う機会を得た。
牟田神佑介
まずは、新たにコルムの最高経営責任者(CEO)に就任されたご自身についてお聞かせ願えますか。
ハソ・メフメドヴィッチ
私がコルムに入社したのは、2011年です。18歳のときに職業訓練校で時計製造を学び、卒業後すぐにコルムを志望しました。応募したのは、この1社だけです。まずは時計師としてキャリアをスタートし、その後は品質管理、セールス、そしてブランドのインターナショナル・セールスディレクターと、順調にキャリアを積み重ねてきました。そして現在、大変喜ばしいことに、コルムのCEOおよびチェアマンを務めています。
牟田神佑介
コルムだけを志望されたとのことですが、訓練校時代からすでに、ブランドに対して魅力や憧れを感じていたのですか。
ハソ・メフメドヴィッチ
もともとブランドのことは知っていたのですが、初めてゴールデンブリッジのムーブメントを見た時にそのあまりの美しさに驚いたことを覚えています。当時時計について学んでいた身として、縦一列にムーブメントが並び、きちんと駆動していることに構造的な美しさを感じたのです。シンプルなことをやっているように見えて、とても複雑。その二面性にも魅力を感じ、コルムで働きたいと強く思ったのです。
12時から6時方向に向けて、輪列が一直線に並ぶ。
18Kローズゴールド製ゴールデンブリッジ クラシック。
牟田神佑介
なるほど。現在ではブランドの象徴とも言えるゴールデンブリッジが、そもそもあなたがコルムに関わるきっかけだったのですね。それほどまでにコルムに熱い思いを抱くあなたが、今回MBOを実行しようと考えた具体的なきっかけはあったのでしょうか。
ハソ・メフメドヴィッチ
きっかけとなる出来事が特別にあったわけではありません。ただ、コルムというブランドに大きなポテンシャルを感じていた一方で、その可能性が十分に活かされていない現実に強い危機感を抱いていました。コルムは、スイスの時計製造において本来の正当な地位を取り戻すべきブランドだと感じていたのです。MBOの構想を描き始めたのは、数カ月前のことです。ひとりはラグジュアリー業界に、もうひとりは金融業界に深い知見を持つ2名の投資家から協力を得ることができ、私がその先頭に立ってプロジェクトを進めることになりました。とはいえ、もともとシティチャンプとは良好な関係を築いていましたので、MBOのプロセス自体は非常にスムーズに進行しました。
牟田神佑介
スイスの時計製造において正当な地位を取り戻す必要があった、ということですが、ここでいう“正当な地位”について詳しくお聞かせください。
ハソ・メフメドヴィッチ
かつてのコルムは、時計業界のなかでもひときわユニークで、そして大きな影響力を持つブランドでした。特にクリエイティビティはコルムの核となるアイデンティティであり、その真価を象徴する要素だったと言えます。しかしながらここ数年、前の経営母体のもとでは、その特性が次第に曖昧になってしまいました。これからはブランドのヘリテージや輝かしい歴史を背景に、それらを軸にしたコミュニケーションを大切にしていきたいと考えています。
スイス、ラ・ショー・ド・フォンに位置するコルムの工房。Courtesy of CORUM
牟田神佑介
経営母体こそ香港資本ではありましたが、生産そのものは一貫してラ・ショー・ド・フォンの工房で行われていました。今回のシティチャンプからの離脱によって、生産体制に何か変化は生じるのでしょうか。
ハソ・メフメドヴィッチ
まず、これまでと変わらずラ・ショー・ド・フォンでの製造は今後も継続していく予定です。現地には、すでに強固なパートナーシップを築いているサプライヤーが存在しており、今後も彼らとの協力関係は変わらず続けていきます。現時点でお伝えできるのは、我々は今後スイス時計業界のなかでベストなサプライヤーと取り組みを行っていく、ということだけです。
牟田神佑介
過去のインタビューで、今後の方針としてブランドのルーツへの回帰を掲げていました。これは、現在のラインナップを1900年代中期〜後半のコルムを参照しながら刷新していく、という意味なのでしょうか?
ハソ・メフメドヴィッチ
2026年の再ローンチについて、現時点で具体的なお話をすることはまだできません。ただし、これまでラインナップから姿を消していた過去のモデルを、現代的な要素を取り入れながらリバイバルしていくという構想はあります。また、もちろんですが、コルムを象徴するようなアイコニックなコレクションにも引き続き注力していく予定です。
牟田神佑介
ブランドの再生にあたって、どのような人々を主な対象として、プロダクトを発信していきたいとお考えですか?
ハソ・メフメドヴィッチ
コルムが持つアイデンティティ、特に他に類を見ない創造性やクリエイティビティに共感していただける時計愛好家の方々に、ぜひ関心を持っていただきたいと考えています。また、すでにブランドの歴史をご存じの方はもちろんのこと、まだコルムを知らない、あるいはその魅力を十分に理解されていない方に向けたアプローチにも、今後は一層力を入れていきたいと思っています。ウォッチメイキングにおいても、そうした意識を常に持ちながら取り組んでいくつもりです。
牟田神佑介
新生コルムにとって、コンペティターとなるのはどのようなブランドでしょう。
ハソ・メフメドヴィッチ
コルムの歴史やヘリテージは、ほかのどのブランドとも似ておらず、まさに唯一無二です。そのため、他社と比較して語るというのはなかなか難しいですね。あえて言うならば、「自分たちの敵は自分たち自身である」でしょうか。
牟田神佑介
CEOに就任されてから、今回の日本が初めての出張だったと聞いています。もちろん偶然かもしれませんが、これはやはり日本市場を意識されてのことだったのでしょうか?
ハソ・メフメドヴィッチ
日本を最初に訪れたのは、決して偶然ではありません。日本市場は、コルムにとって非常に重要なマーケットであると考えています。なぜなら、日本の時計愛好家は、時計そのものに対する深い造詣を持っているだけでなく、ブランドのアイデンティティやディテールにまでしっかりと目を向けてくださるからです。こうした姿勢は、先ほどお話しした、私たちが想定しているユーザー層とも重なります。今後は日本市場との関係をさらに深め、リテーラーやメディアともより密接なコミュニケーションを図りながら、ブランドのプレゼンスを一層高めていきたいと考えています。
来年予定されている再ローンチの詳細については、いまだ多くがベールに包まれている。しかし、今回のインタビューを通じて、ハソ・メフメドヴィッチ氏がいかにコルムというブランドに魅了され、その再興に強い情熱を注いでいるかがよく伝わってきた。これまでのコルムは、アドミラルやゴールデンブリッジといった既存のアイコンモデルのリリースが、主なコミュニケーションの軸となっていた。しかし2026年以降は、ブランドの豊かなヘリテージに立ち返りつつも、エンブレムである“空を指す鍵”が象徴する“挑戦”や“革新性”に満ちた新たな展開が期待できそうだ。
コルムは2026年に向け、大きなトピックスをすでに用意しているようだ。HODINKEE Japanでも、新たな情報が入り次第、随時お伝えしていきたい。